「ワールドカップ狂想曲」


 2002年6月、日本と韓国の共催でサッカーの祭典、ワールドカップが行われた。あの時の常軌を逸した熱狂ぶりは今でもはっきり覚えている。あれは凄かった。凄すぎた。テレビ、新聞、そして友人達との会話。全てがワールドカップ一色だったと言っていい。楽しかった。あれほど日本全土がお祭り騒ぎに燃えた事は無かった。
 今回はそんなワールドカップの始まりから終わりまでを書こうと思う。


 まず最初に僕が知っている限りのワールドカップ知識を話したいと思う。とは言うものの、スポーツに関しては大した知識はもっていないので、あまりマニアックな事は書けないが。
 ワールドカップとは4年に1回行われる超大規模なサッカー大会である。以上! ‥‥えっ? それじゃあ全然分からないって? そんな事言われても、それ以上言う事なんかありません! って言うか、みんな知ってるでしょ。(じゃあ、書いた意味無いじゃん)
 まあ、もうちょっと言わせてもらうと、ワールドカップはおそらくスポーツの大会の中でも最も多くの国民が知っていて、人気のある大会だろう。それは何と言ってもサッカーが世界に共通する最も代表的なスポーツだからである。
 日本では昔から野球の人気が根強いが、野球が流行なのは日本と韓国とアメリカくらいなもので、他の国ではほとんど普及していない。理由は設備にある。ある一定の広場、バット、グローブ、ボール、更に一定の人数がどうしても必要となり、お金の無い子供達は楽しく遊べない。
 それに対してサッカーはボール1つあればできてしまう。ゴールだって地面に線を引けばとりあえず出来てしまうし、人数もその場に応じて変えてもそれほど問題無い。ルールも比較的簡単である。そういった点から、サッカーは全世界に広く行き渡り、今でも楽しまれているのである。
 どのスポーツよりも普及しているサッカー。それの世界最強を決める大会。ならば、盛り上がらないわけがない。それはある意味、国と国との壮絶な戦いであり、ある小説家は「ワールドカップは血の流れない戦争だ」とまで言いのけた。それはまあ言い過ぎだとは思うが、国の威信のようなモノがかかっているのは間違いないと思う。だからと言って外交に何かいい事があるのかというと何も無いが。
 とにかく、ワールドカップは数多くのスポーツ大会の中でも抜群の人気を誇っているのである。
 僕の記憶では、日本でサッカーが国民的スポーツになったのは本当に最近、つまりこのワールドカップからだと思う。ワールドカップの前から既にJリーグはできており、日韓ワールドカップの前の大会、つまりフランス大会でも結構な盛り上がりを見せた。んが、僕の頭の中にはフランス大会の事などほとんど記憶に無い。「ドーハの悲劇」もよく知らなかったし、サッカー選手と言えばカズとゴン中山と柱谷(何故?)くらいしか知らなかった。(当時はもう中田も活躍していたのに‥‥)
 サッカーがはっきりと国民に認められたのは、やっぱり日韓ワールドカップだと思う。少なくとも僕のような素人もサッカーに目を向けるようになったのは、ここからだった。


 2002年。当時僕は大学4年。単位はほぼ全てとっていて、残るはゼミと卒論だけだった。本来、卒論は一年かけてじっくりと書くものだが、当時既にバリバリに小説を書いていた僕は
「原稿用紙100枚くらい一週間だぜ」
 とタカをくくっており、当時は随分のんびりと過ごしていた。(実際それほど苦労しなかったりしてる)
 これはあくまで僕個人の記憶だが、その年の初め頃はワールドカップが日韓共催で行われる事など、まったく知らなかった。スポーツと言えば阪神(笑)だった僕は正直、サッカーなんて全然興味が無かった。
 にわかにテレビなどが騒ぎ始めたのは開催の1ヶ月か2ヵ月くらい前じゃなかったかな? えっ? そんな事は無い? 前々から凄い熱気だったって? まあ、サッカーファンの方の中にはそう言いたい人もいるでしょう。でも、サッカーにとんと興味の無かった僕や、その他大勢の人達はきっと僕と同じような感想を持っていたと思う。
 んが、そこはやはりワールドカップ。
「何かが始まるぞ〜」
 という匂いがプンプンと漂ってきて、更にそこにイングランドの貴公子デビッド・ベッカムや、トルコの王子様イルハン・マンスズ、そして韓国の最強イケメン、アン・ジョンファンなどがやってくると女性達が騒ぎ始めた。
 そして、かっちょ悪いけどメチャクチャ強いブラジルのロナウド、ロベルト・カルロス。強面キーパー、オリバー・カーン。上だけやばい頭のジダン、どう見ても髪の毛が鬱陶しいアルゼンチンのバティストゥータなんかがやってくると、国民全体が盛り上がり始めた。
「おおっ、何かこれからとんでもない事が起きるのではないのか?」
 という雰囲気が漂い始めたのである。
 そして、中田英寿選手のような強い日本選手がいる、という事も分かり、にわかにワールドカップが熱を帯び始めたのである。
 ここで豆知識を1つ。ワールドカップの開催国は予選を免除される。その為、日本と韓国はいきなり本戦に参加する事ができるのである。まあ、開催国が本戦にいないというのも格好悪いしね。
 ここで、僕が覚えている限りのメンバーをご紹介しよう。まずは司令塔の中田。金髪のブスッとした表情が印象的なリーダーである。そして、中田のサポートとして小野。この戦いで一躍英雄となった稲本、鈴木、戸田。顔は好きだった柳沢。ディフェンダーながら実に活躍していた宮本、松田、中田浩二。ドイツのオリバー・カーン並みの厳つい顔をしていた楢崎。最後にレギュラーではなかったものの、熟年の意地を見せたゴン中山。この辺りだろう。キングこと三浦や、中村、高原は残念ながら選ばれず。(高原は病気になってしまったんだな)
 監督はフランス人、トルシェ。フラット3なる特殊な作戦を考えた偉大な人である。ちなみにフラット3とは、ディフェンダー3人を意図的に前に出してオフサイドを狙う、という作戦である。サッカー好きなら知らぬ者はいまい。
 と、このような情報がテレビで飛び交う中、2002年5月30日。日韓共催ワールドカップは始まりを告げたのである。
 日本がトーナメントのベスト16に入る際に戦わなければいけなかった相手国は三ヶ国。ベルギー、ロシア、チュニジアであった。そして、最初の戦いはベルギーだった。
 大会は昼と夜の2回行われる。昼間だとサラリーマンは見れなかったらしいが、運良くベルギー戦は夜行われた。


 僕は元々スポーツ観戦が好きではなかった。好きだったのはK−1と阪神戦くらいだった。ので、ワールドカップが始まっても、それほど興奮しなかった。
「ああっ、サッカーの試合やるのね」
 くらいにしか思っていなかった。
 んが、ベルギー戦を見てから気分が変わった。いや、嫌でも変わるざるをえなかった。それは妹のせいである。妹は自分ではやらないくせに、やたらとスポーツが好きだった。
 僕はベルギー戦自体大して見る気は無かったのだが妹が、
「絶対に見るの!」
 とがんとして主張を変えず、結局家族で対ベルギー戦を見る事となった。勿論テレビで、ですが。
 そして、前述したメンバーで2002年6月4日。埼玉スタジアムで緊張の第一戦、ベルギー戦は幕を開けたのである。スタジアムは95%が日本ファン。これぞホームの強みである。
 毎回なのだが、僕は試合開始のホイッスルが鳴ると同時に客席から物凄いフラッシュがたかれる瞬間が大好きなのである。今回に限った事ではないのだが、今回も物凄いフラッシュがたかれた。それと同時に響く無数の歓声。
「ああっ、ついに始まった」
 そう実感できる瞬間である。
 試合は平行線の一途を辿り、前半は0対0。が、後半に入って状況が変わる。ベルギーの猛攻により1点とられてしまうのである。この時、サッカーファンは嘆いたという。
「ああっ、またフランス大会のようになってしまうのか」と。(ちなみに私はよく知らなかった)
 が、ここで終わらなかったのが今回の試合。土壇場から鈴木が強烈なブリッジ状態で足を振り抜き、それがゴールに転がったのである。オオッという巨大な歓声。その中で吠える鈴木。あれは強烈だった。
 が、興奮は終わらない。その数分後。絶妙なパスワークで稲本にボールが渡り、そのまま美しくシュート! 見事にネットを揺らし、逆転したのである。この時の稲本の嬉しそうな顔といったら無かった。サッカーにあまり興味の無かった僕でさえも興奮した。
 その後、またベルギーが反撃に出て、結果試合は2対2の同点に終わった。だが、それでもテレビやサポーター達は騒ぎまくった。
 そう、ワールドカップで初めての勝ち点1だったのである。
 ここでまたまた説明しよう。ワールドカップはベスト16からは全チームトーナメント性となる。が、そこに行くには4カ国1チームになって戦い、その試合の勝ち負けによる得点で決まる。勝つと3点、引き分けだと1点、負けだと0点である。何点とって勝ったとしても、こちらの得点は3である。分からないかな? 勝った事によりもらえる得点というのがあり、その多い少ないで4カ国の内の一位を決め、ベスト16行きが決まるのであるよ。分かったかな? これ以上は説明できません!
 日本がワールドカップの本戦に参加したのはこれが2回目であった。1回目は勝つどころか引き分けで終わる事もできなかった。つまり、日本がワールドカップという大舞台で初めて勝ち点1を手にした瞬間だったわけである。
 まだベスト16に入れるのかどうかも分からないというのに、この引き分け劇で日本はとんでもなく盛り上がった。普段はお堅い記事を一面に載せる新聞すらこの引き分け劇をデカデカと掲載した。スポーツ新聞なんてそれしか書いていなかった。


 サッカーの話題は大学でもだった。当時、僕は授業と言えばゼミだけだったのだが、そのゼミの先生が何故か凄くサッカー好きだった。更に生徒の中にサッカー好きが何人かいて、彼らの溢れ出るオーラに他の生徒達(勿論僕も)も完全にやられてしまい、その間、授業らしい授業はほとんどしなかったと記憶している。
 大学は基本的に私服だ。だから、日本のユニフォームを着て登校してくる人もチラホラと見かけた。まあ、渋谷や新宿なんかに行っていたらもっとたくさんいただろう。


 さて。ベルギー戦の興奮も冷めやらぬまま、6月9日、我が日本はロシア戦へと臨んだ。この試合も夜に行われ、またしても家族全員で見る事となった。
 試合はまたしても混戦の一途を極めた。ロシアは背も高く、ワールドカップ出場もかなりのものだった。更に「白い巨人」なんて異名まで持っていたのだから、苦戦も仕方なかった。
 だが、風は日本に吹いた。後半、ポンポンと飛んだボールをゴール前で稲本がキャッチ。そのままグイッとねじ込み、奇跡の得点を手にしたのである。稲本2度目の得点である。この2得点で彼は完全に英雄になった。そして、その英雄に元気づけられた他のメンバーも頑張り、その1点を死守。結果1対0で勝ったのである。
 ワールドカップ史上、日本が初めて勝った試合である。この時はさすがの僕も嬉しかった。
「何だか、歴史的事件を目撃したぞ」
 みたいな気分だった。実際に歴史的な事なのだが。
 この時のサッカーファンの騒ぎっぷりは異常だった。阪神が勝ったわけでもないのに道頓堀にダイブする奴がいたり、街灯に登って吠える奴がいたりと、これ以上無いという程のランチキぶりだった。更に、あの時は世界中から様々な外国人が来ていて、彼らも一緒になって騒ぐものだから都心の無法っぷりは、
「絶対に今あそこに行きたくねえ」
 と思う程だった。
 何でもロシアでは暴動まで起こったらしいが、そんな事は露知らず、アホすら超えた騒ぎが続いていた。
 その騒ぎを更に助長するかのように、テレビでも毎日、いや毎時間この話を取り上げた。稲本のシュートは多分50回は見たと思う。どこのチャンネルを回してもそればかり。この時だけは野球は完全にサッカーに消されてしまっていた。いや、野球だけではなく、サッカー以外の全てのスポーツがテレビから追い出されていた。
 僕はユニフォームも持っていなかったし、この騒ぎに参加するという事は無く、テレビで見てただけだったが、そんな僕もその騒ぎにちょっとばかり巻き込まれる事になってしまった。大学である。
 前述したが、僕のゼミの先生は年甲斐も無くサッカーが好きだった。ある日、ゼミに行くと先生は何とまあ嬉しそうな顔をしていた。多分60近い先生だったはずだが、あの時だけは僕より子供だった。
 そして、その子供っぷりが次のチュニジア戦で炸裂した。


 そして6月14日。チュニジア戦。これに勝てばベスト16に進出が決定する。日本国民の期待は最高潮に達していた。これほど国民が自国の事を応援していたとは知らなかったと思ったほどだ。日本は愛国心が無いなんて誰かが言ったが、少なくともあの時だけは皆心が一つだった。
 そのチュニジア戦だが、この試合は昼間に行われた。テレビによれば、その試合を見る為に会社が休みだったとこもあったとか。凄い。
 凄いと他人事のように思っていたが、なんと授業も休みになってしまった。そう、先生である。
 チュニジア戦のあった日はゼミもあったのだが、研究室に来て早々、
「俺は帰ってサッカー見るから、お前らも帰っていいぞ」
 と言って、先生はさっさと帰ってしまったのである。
 僕などの熱狂的ではなかった生徒達は呆然としていたが、やっぱし試合は見たかったので、そそくさと自宅に帰って観戦する事にした。
 皆さんもこの結果は知っているだろう。日本は前半から押しに押しまくり、後半、森島の強烈なシュートと、そして司令塔中田のヘディングにより、2対0。圧勝だった。前回のロシア戦でのテンションがもったのだ。
 日本はワールドカップ史上、初めてベスト16に入った瞬間である。
 この時の日本全土の騒ぎっぷりはもう言葉では説明不可能だった。日本のサッカー史上初めてのベスト16進出。それは奇跡であり、事実であり、お酒とお祭りの最高のネタだった。
 都会にはジャパンブルー(日本のユニフォームが青だった事から、こう名づけられた)が溢れ、朝までドンチャン騒ぎ。共催国韓国も日本と仲良くベスト16まで勝ち残り、この時ばかりは昔の戦争がどうとかなんてのは全然無かった。赤いユニフォーム(こっちは韓国の色ね)と青いユニフォームが肩を合わせて踊るわ歌うわ‥‥。ブラジル、イングランド、ドイツらも勝ち残り、彼らも一緒になってボッカンボッカン騒ぎまくる。
 あれは‥‥もう表現のしようがありません。
 テレビももはや暴走状態。ポルノグラフィティ、ドラゴンアッシュ、ビーズやらやらの各局のワールドカップテーマソングが朝から晩まで流され、普段はお堅いコメントをしてる人まで笑顔で日本万歳だった。なもんだから、普段からテンションの高い人達は、心臓が破裂して死ぬんじゃないか、と思う程暴走していた。
テレビ朝日のニュース番組「ニュース・ステーション」に出ていた川平慈英さんは涙で顔がグシャグシャになる程泣いていたし、スポーツコメンテーターも個人の感情丸出しのコメントをしていた。
 何かもう、わけが分からなかった。一番冷静だったのはもしかしたら選手達本人だったかもしれない。それほど日本全土(あと韓国も)が揺れていた。


 だが、どんなお祭りにもいつか終わりが来る。熱狂が覚めやらぬ6月18日、ベスト16対決のトルコ戦に突入。しかし、後半、コーナーキックからのヘディングにより先制点を入れられ、そのままそれが決勝点となり日本は負けてしまった。
 韓国は順調に勝ち進むものの、ベスト4で負けてしまう。(アジア勢としてはワールドカップ史上最高の順位だが) ベッカム率いるイングランドも、オリバー・カーン率いるドイツも強豪ブラジルに敗れ、ワールドカップはブラジルが優勝して終わった。
 その後は今までの熱狂が嘘のように収束していき、嵐のようなワールドカップは終わりを告げたのである。あとに残ったのは生涯忘れない最高の思い出と、経営の危ない無数のスタジアムだけとなった。


 今思うとあの度を越えた騒ぎは何だったのだろうと思う。まあ、一瞬のイベントというのは得てして思い出すとわけが分からなかったりするものだが、あの思い出はまさにそうだった。勿論、ちゃんと思い出になる事もあった。日本は予選を免除されたものの、実力でベスト16まで行くという偉業を成し遂げた。韓国はベスト4という名誉を手に入れ、ベッカムは世界で一番格好良いという称号(?)を得た。
 色々な事があまりにも連続して起こり続けた為、それを整理するのに時間がかかったのだろう。もっとも、今はもう完全に冷静になったが、また次のワールドカップが始まると騒ぎ出すのだろう。でも、それもまた楽しそうだからいいか。
 あの時の思い出は生涯忘れないだろう。もしこれを読んでいる方で、あのワールドカップをリアルタイムで経験された方、皆さんも似たような感想を持っているだろう。そう、あれはやっぱり楽しくていい思い出なのだ。
                                                                         終わり


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